船谷ホールディングス株式会社|三重県伊勢市の総合建設グループ

1877年創業、140年を超える歴史。

明治10年3月11日。
三重縣伊勢國度會郡(現在の三重県伊勢市)において創業した、材木問屋「船谷吉松商店」が私たちのルーツです。
明治~大正~昭和、そして平成。
時代の流れに即応するかたちで、材木問屋、製材業、建設業と業態変革を重ねてまいりました。
現在はホールディングカンパニーを中心とした企業グループを形成。
総合建設業、建物管理業を主軸に、さまざまな事業展開を図っています。

トータルでのサポート体制を確立した賃貸マンション事業。
おじいちゃんやおばあちゃんのお住まい探しから得たノウハウをフィードバックする高齢者関連施設事業。
数々の実績と、システム建築を融合させた工場・店舗建設事業。
鉄筋コンクリート造の特性を知り尽くしたRCハウス事業。
太陽光発電を中心とした再生可能エネルギー普及事業。
常に変革を重ね、さまざまな事業提案を行なっています。

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【初代】船谷 吉松

船谷吉松商店

「この吉松をな、信じてもらいたいのや」
伊勢の木材問屋の主である 船谷吉松 は、22歳の誕生日を目前に控えた のぶよ の前で誓いを立てます。
吉松はその時31歳。12年前に始めた船谷吉松商店は11年を迎え、その勢いはますます盛んな頃でした。

一方、伊勢でも指折りの大庄屋であったのぶよの家ですが、彼女の兄の放蕩が災いし、その家運は潰えようとしていました。
名家の息女でありながら、運命のいたずらにあってその全てを失おうとしていた彼女。吉松はのぶよを心から愛し、ともに隆盛を取り戻そうと約束したのでした。

安政4年(1857年)11月10日、厳しい冬の寒さが足音を立てて近づいてくる中、船谷家の長男船谷吉松は元気な産声をあげます。時代は江戸時代末期、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスが14代将軍徳川家定に謁見し、日米修好通商条約の締結を迫ります。まさに日本全体が開国という激動の渦に飲み込まれていこうとしていた時のことでした。

明治10年(1877年)3月11日、吉松の父である音吉は退隠し、19歳であった吉松に家督を譲ります。
吉松は家督の継承とともに材木問屋「船谷吉松商店」を創業。生来の誠実な人柄と額に汗する彼の姿は多くの人々の協力を得ることとなり、商いは順調な滑り出しを見せていました。

明治21年(1888年)6月7日には妻のぶよを娶り、夫婦二人三脚で家業に精を出しました。
いつしか船谷吉松商店は伊勢の大店となり、他の材木問屋を飲み込んでしまうほどにまで成長しました。

夫婦は二男三女に恵まれ、家業は隆盛を極めていく中、二代目吉松である長男吉太郎へ。
「自分を信じてもらいたい」強い信念のもと約束を果たす吉松の姿は、まさに信頼の枝をひろげる大樹のようでした。

 

【二代目】船谷 吉松(吉太郎)

船谷吉松商店

偉大な父である吉松の跡目を継いだ二代目吉松こと船谷吉太郎ですが、運命はまたもやいたずらを仕掛けます。
派手好きな性分の吉太郎。彼は東京に繰り出して活動弁士をやり始めるなど、あまり商売に身が入らない毎日でした。

自らの長男に商才がないと判断した初代吉松は、船谷家の存続のため一計を案じます。
自分の7歳年下で、船谷吉松商店の筆頭番頭であった 中奥甚五郎 の剛毅な人柄に目を付けました。その当時船谷家には、大畠家に嫁ぐも夫の早世により死別した長女の はな が実家に戻ってきていました。

女にしておくには惜しいほどの度胸と決断力に優れたこの長女を甚五郎に娶らせ、養子縁組することで、船谷家、延いては船谷吉松商店の存続を図ったのです。
結果、この吉松の策は功を奏し、材木問屋の大店としての家格は、船谷甚五郎とその妻はなによって受け継がれていくのでした。

 

【三代目】船谷 甚五郎・はな

船谷甚五郎商店

三代目となった甚五郎ですが、彼は船谷吉松商店を名乗らず、屋号を船谷甚五郎商店に改めます。
それは本来の家筋である二代目吉松に配慮してのことでした。

しかしながら、屋号を変えたからといって家業の隆盛は衰えることなく、背中に「鱗甚(うろこじん)」を染め抜いた揃いの法被を身に着けて、数多くの男衆が材木問屋の商いに勤しんでいました。

甚五郎とはなの二人が活躍していた頃、日本の国は黒い影に飲み込まれようとしていました。昭和12年(1937年)7月に勃発した盧溝橋事件を皮切りに、日中戦争、太平洋戦争に突入します。翌年には国家総動員法が制定され、日本国民全体が戦争一色となっていきました。

そんな中、甚五郎とはなの二人に事件が起こります。
国のすべての資源を政府が統制運用できる国家総動員法に基づき、商いの源である材木を召し上げとする旨を役人が伝えに来たのでした。
「明日より、この線から左の材木は全て国家のものである」
役人は河原に線を引き、大量の材木の浮かぶ宮川を指さして、そう告げると、足早に立ち去っていきました。

さすがに途方に暮れるより他ない甚五郎でしたが、そばにいたはなは何かを決意したように唇を真一文字に結びます。
そしておもむろに甚五郎の方を振り向くと、
「明日より。この線から左の材木。役人はそう言っとったわね」
そう言い残してその場を立ち去るのでした。

はなは店中の男衆を集めると、大号令をかけます。
「あんたら、今日はもう休んでええ。その代わり今夜宮川に全員集合や。誰にも気づかれず、絶対に遅刻厳禁。ええな!」
この怒号に、甚五郎もはなの意図に気が付きます。そそくさと店を閉め始める甚五郎の姿に、道行く人は船谷甚五郎商店の幕引きを感じていたのでした。

世間が寝静まったころ、船谷甚五郎商店には数多くの男衆が集まってきます。目を炯々とさせながら、甚五郎とはなの指示を待つ男衆に向かって、はなは檄を飛ばします。
「ええかいな!この線より右や。この線より右に、今ある材木を全部動かすんや」

一口に動かすといってもその数たるや膨大な量です。しかも真夜中。人目を忍んで行なう作業は危険と困難を極めていました。
しかしながら男衆たちは、黙々と、誰一人休むことなく、いかだを組み、夜を徹して材木を運び続けました。

夜が明けて次の日、ふたたび船谷甚五郎商店にやってきた役人は唖然とします。
昨日まで膨大な材木が蓄えられていたはずの「この線より左」には、いくつかの木切れが散らばるばかり。

空っぽ同然になった宮川を眺める役人の背後から
「どうぞ、お持ちください。お役人様」
甚五郎の大きな声が高らかに響き渡りました。

ひとつ間違えば国家への反逆行為。まなじりを吊り上げて振り向いた役人に対し、甚五郎は一切たじろぐことなく満面の笑顔で役人を見つめます。
「これは、甚五郎さんの勝ちや」
甚五郎の笑顔の奥に並々ならぬ剛毅を感じた役人は、表情をやわらげ、何ら咎めることなくその場を立ち去るのでした。

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当時の木材の切り出しの様子
uroko法被に染め抜かれた「鱗甚(うろこじん)」の文字
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三代目 船谷 甚五郎
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船谷 はな

 

【四代目】船谷 精一

船谷木材有限会社

船谷甚五郎商店は、甚五郎の長男である 船谷精一 の時代に移ります。
1946(昭和21)年、船谷甚五郎商店を改組、船谷木材有限会社として、製材業、材木販売を生業とします。

四代目である精一にとって、伊勢神宮は特別以上の存在でした。物心ついた頃には目の前でお木曳の木遣り唄が響いていたのですから無理もありません。精一の崇敬意識は醸成され、神宮のさまざまな行事に積極的に取り組みます。20年の一度の大行事、式年遷宮。全身全霊を捧げる精一の功績は大きく評価されることとなり、叙勲の運びとなります。

ですが、精一が伊勢神宮への情熱を深めるほど、皮肉なことに家業に翳りが見え始めます。海外からの輸入木材の普及や、純和風住宅ニーズの低下などが原因し、材木業全体の先行きが不透明な時代が到来していました。船谷家の生業は、新しい分野に向けて、大きく舵を切る必要に迫られていたのです。

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四代目も参加した当時の「御木曳き」の様子
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四代目 船谷 精一
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叙勲の様子

 

【五代目】船谷 隆史

船谷建設株式会社

1972(昭和47)年7月22日、船谷木材から分社独立するかたちで船谷建設株式会社を設立します。それは、当時専務取締役であった五代目船谷隆史によるものでした。
大手建設会社で修行を積み、必要なノウハウを身につけた隆史は、建設業という新しい事業に向けて大きく舵を切ります。それは、これまで木材を購入してくれてきたお客様のライバルとなるということを意味するものであり、大きな賭けでもありました。

未開の海に繰り出すような船出ではありましたが、五代目である隆史には、まさに片腕とも言える頼もしい存在がありました。
実弟の船谷博(ひろし)です。
兄である隆史は現場監理の統括を行ない、弟の博は営業のプレイングマネージャー。そんな兄弟の二人三脚経営は、高度成長期の時流にも乗り、注文戸建住宅を中心に順調な受注を重ねていきます。いつしか他の建設会社からも一目置かれる存在となり、製材業から建設業へ、確実な転身を遂げることができたのです。

突然やってくるもの、それが試練です。
忙しくとも順調に業績を伸ばしてきた五代目隆史に、過酷な運命が待ち受けていました。
それは実弟博の癌宣告でした。
寸暇を惜しんで働いてきた兄弟。そのひとりである博に病魔は目を付けました。現在と違って当時は発見が難しく、不治の病であった癌。博が自身の体調異変に気が付いたときは、もはや手遅れの状態。博は38歳という若さで、その生涯を閉じることとなったのです。

実弟を失い、一時は悲嘆に暮れた五代目でしたが、周囲の助けもあって立ち直り、ますます仕事に精進します。戸建木造住宅中心であった受注は、賃貸マンションを中心とした規模の大きなものに。高齢者関連の福祉施設や公共事業工事なども手掛けるようになり、建設会社としての存在をますます大きくすることとなりました。
早逝した実弟のためにも、船谷建設は荒波にも負けない強い船になっていったのです。

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故 船谷 博
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四代目 船谷 隆史
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地鎮祭での様子

 

【現代】

船谷ホールディングス株式会社

2003(平成15)年7月、賃貸マンション管理会社「エクノフ株式会社」を設立。
船谷建設が施工する賃貸マンションの入居管理、建物メンテナンスを展開し、現在2,300戸を超える鉄筋コンクリート造賃貸マンションを管理しています。

施工と管理を一本化する体制を評価され、2012(平成24)年10月から、「FE住宅管理共同企業体」を発足。
伊勢市内において1,000戸を超える市営住宅等の管理(指定管理者制度)を行なっています。

また、この体制は三重県においても高く評価され、三重県による初のPFI的事業「三重県職員公舎(東紀州世帯用)整備運営事業」に採択されました。
2012(平成24)年3月に設立された「M’s東紀州株式会社」は、同事業の特別目的会社です。

2011(平成23)年5月にスタートした「京セラソーラーFC伊勢」において、数々の太陽光発電システムを設置。
設置だけでなく自社による太陽光発電売電事業も広げていく中、多気郡明和町における公民連携事業としてメガソーラーの運営を開始。
同事業の運営会社として「合同会社FPKきららの森」を2014(平成26)年2月に設立しました。

そして2017(平成29)年4月。
事業展開が多層にわたる中、確実なガバナンス体制を構築するため、ホールディングカンパニーを中心としたグループ企業を形成することとなりました。
1877(明治10)年創業の歴史を継承する船谷木材株式会社を「船谷ホールディングス株式会社」改称し、同社を中心としたホールディング体制を確立いたしました。

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三重県職員公舎
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京セラソーラーFC伊勢 開業
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明和町 斎宮きららの森


企業沿革

明治10年3月 木材問屋 船谷商店創業
昭和21年3月 同店を改組、船谷木材有限会社を設立
昭和27年4月 同社建設部門を開設
昭和45年5月 同社不動産部門を開設
昭和47年7月 船谷木材有限会社の建設部門・不動産部門を独立、船谷建設株式会社を設立
昭和51年4月 資本金を30,000,000円に増額
昭和55年7月 伊勢市村松町(国道23号線沿)に新工場・資材発送センター・仮設機材センターを建設
昭和56年5月 資本金を50,000,000円に増額
昭和61年11月 三重県産業功労賞受賞
平成6年3月 本社を伊勢市吹上2丁目から伊勢市村松町1364-8(国道23号線沿い)に移転
平成12年5月 伊勢市村松町(国道23号線沿)に住宅展示場(チェリッシュパーク)をオープン
平成15年3月 私募債を150,000,000円発行
平成17年7月 松阪市に施工の賃貸マンション「グランドゥール」が住宅金融公庫優良賃貸住宅受賞
平成18年1月 財団法人住宅改良開発公社より理事長表彰受賞
平成18年3月 三重県下初の防犯対策住宅適合団地(住宅金融公庫基準)「M’s 南ヶ丘」が津市に完成
平成19年12月 グループ会社「エクノフ」が全国賃貸管理ビジネス協会に入会
平成20年1月 国連WFP協会に評議員として入会
平成24年3月 三重県職員公舎(東紀州世帯用)を民活事業にて建築受注※「M’s東紀州株式会社」を設立し、事業契約を締結
平成24年10月 指定管理方式にて伊勢市市営住宅の管理を開始※「FE住宅管理共同企業体」として、管理契約を締結
平成27年6月 伊勢市優秀工事施工者表彰を受賞